善の研究 西田幾多郎
天地人生の真相はいかなるものなるか、
真の実在はいかなるものなのか、
世界を理解することが、自分の本質の理解に繋がる
考える以前の、瞬間的な情報
危険に会った時、
危ない、という言葉が出る前の感情
受け入れ方
宗教的要求
知は言葉で理解すること
愛は理屈を超えて理解すること
仕事の現場などでは、知と愛がないと実現できない
自分と対象が一つになろうとする時に動くもの
哲学の動機は、人生の深い悲哀でなければならない
西田のいう宗教は、今の宗教(宗派)に別れる前の、感覚のようなもの
真の自己にたどりつくことが善である
人と分けられない存在=自己
自己は自分だけでは存在していない
自分らしくあろうと意識すると、かえって自分らしくなくなる
善は、行為によって体現されるもの
人格的要求その行為そのもの
200508_追記
→自分史、未来年表を書いて分かったが、自分は自分だけでそうなったわけではなく、環境の影響が極めて大きい(99%ぐらい) それに気づくことによって、自分の人生が始まるような気がする。残りの1%をどう変えていくか、が人生である気がする 行為=考えているだけではない時、行為には他者がいる
普遍的無意識は、個人的無意識より根源的にあるのでは
https://gyazo.com/1336d87157ea2c345889f3d150cf1a09
全人類への貢献が、善に関わってくる
善=生きる意味
善=真の自己を知ること
序文
実在は現実そのまま
物質の世界はこれから考えられたものにすぎない
高等学校の学生であった頃、金沢の町を歩きながら、そういった思索をしていた りんごは、何も知識を持たない状態であれば、ありのまま受け入れられるが、
一度赤いりんご、などといったように、認識を持ってしまうと、抽象化、概念化されてしまい、ありのまま受け入れることができなくなってしまう
https://gyazo.com/019117f414c356ca09101a357fc88061
https://gyazo.com/bcfbabe3ce53fbcf99fb63fafe719ff7
西田のいう現実
情報として受け入れる前の現実、存在
ラジオ、言葉で説明すると、限定されてしまう
素朴なものは、情報になる前のところにある
伊集院光、初めて車椅子ラグビーを見た時のこと
ルールはわからないが、音の迫力でいろいろなことを知ることができた
世界を、メガネを通して見ている
メガネを外してみることが重要で、そのような経験は日常に深く根ざしている
人の思いで、経験をしていく、という順番だけではない
独我論を脱することができた
知的直感
対象と合一する状態
直にみること、を妨げること
思想
嗜好
好き嫌い
習慣
昨日の自分と今日の自分は違う。
繰り返している、という感覚
→よくみること、常識を取り払った感覚で触れてみる
非日常の価値がいつの間にか、日常の価値より高まってしまっている それをひっくり返そうとしたのではないか
善の研究をまとめたあと、家族が次々と亡くなる 死別 妻、8人の子供のうち5人
他の人との出会いにもなっている
実際には、それは分けられないこと
多の一、
https://gyazo.com/27e8ed885da8d0f4f1cff9225066e997
現在は過去と、未来と繋がっている
様々な働きかけがあった上での現在
昭和20年、死去
自己は、絶対の自己否定によって自己を獲る
小さな自分を手放すこと
到達できなくても存在している
安心して悲しんだりできることが許されている
生物的生命
人格的生命
死んても残る物